7.松花江のヌーディスト

 翌二十四日午前、「黒龍江博物館」と「東北烈士記念館」を見学。
 「黒龍江博物館」は、この地方の歴史博物館。考古時代から渤海国の誕生、女真族から満州族にいたる長い歴史が陳列・解説されていた。
 むろん、清朝につながる歴史の抒情詩である。
 「東北烈士記念館」は、旧関東軍憲兵隊司令部あとにできた記念館で、拷問部屋などが再現されていた。
 午後は、スターリン公園を少しばかり散策。スターリンとは名ばかりで、いまでは崇拝の対象ではないらしい。
 ここは松花江の川べりで遊覧船が出る。松花江クルーズは、上天気に恵まれ、さわやかな川風に一時やすらぐ。
 この日、夏日和の日曜日でもあり、川岸に市民の沐浴光景を見る。左の川岸はパンツを穿いているが、右の川岸はヌーディストの溜り場だとか。
 目を凝らして見る。望遠レンズを目いっぱいにしたが、それらしきものは捉えられない。
 相手もこちらに気づき、大声を上げ手を振ってきた。
 「でも、ほとんどの人は、退役軍人や労働者です」とガイドの声。
 シャッターを押す気が萎えたのは、言うまでもない。
 下船後、白鳩の群れあう、ロシア正教のソフィア教堂を見学。建物は教会であるが、内部は中国側から見た抗日戦争をテーマにした歴史館であった。
 夜の便で、ハルビンを発ち瀋陽に向かう。


黒龍江博物館で(中央が青木副理事長)

8.戦争への導火線

 瀋陽の朝は、北国らしい鈍い光が街のビルを照らしていた。
 終戦後は重工業都市として発展したために、かつては煙突が林立。中国の都市の中で最も汚い街といわれていたが、いまは煙突が取り払われ、都市の美観を取り戻している。
 午前中は、日中戦争の勃発地である「918事変博物館」と張学良旧居(張氏師府)の見学。
 瀋陽は昔の奉天で、満州国時代には首都の新京よりも多く日本人が住んでいた。むかしも今も、 日本人には馴染みの深い街である。札幌市と川崎市が姉妹都市になっている。
 「918事変」は、日本では昭和六年に起きた「満州事変」といったほうが通りがいい。この歴史博物館は、事件の現場となった柳条湖のすぐそばにある。
 旧舘と新館があるが、わたし達は超近代的なモニュメントをおもわせる新館の前で記念撮影をした。中の陳列品を見るのをやめ、張作霖爆殺の現場を訪ねることにした。
 昭和三年六月四日午前五時半、満鉄奉天駅から一キロの地点、京奉線と満鉄が交わる橋脚のところで爆発が起きた。
 わたし達は、その現場に足を踏み入れた。線路脇の生い茂った茅と瓦礫を踏みしめ、現場そばの記念碑までたどりついた。けっして観光客の行くところではない。
 この爆殺現場を当日、旅行中の与謝野鉄幹と晶子夫人が見物。そこで張作霖が愛用していた、焼け焦げた「花牌」を拾い、歌に詠んだ。
 「そのなかばこげたる汽車に将軍のもてあそびたる紙牌の白し」
 この事件は、関東軍高級参謀である河本大作大佐の謀略であることが、のちに露見する。
 戦争への導火線の一つであった。
 張氏師府は、張作霖、張学良父子の私邸であり、また官邸でもあった建物群。
 主に張学良の生い立ち、生活ぶりや第五夫人にいたる私生活の断面を陳列保存。
 午後は、ちょうど瀋陽で開催中の”花博”「世界園芸博覧公園」を見学した。小雨がちらついたが、苦にならない程度であった。
 夜は、「老辺餃子館」の餃子宴会。これは、食い意地の張った私たちに最も期待感を抱かせた、楽しみの一つだった。
 期待通りの、豊富な味のバラエティを堪能した。


日中戦争の勃発地、柳条湖の近くの918事変博物館前で


9.清朝のふるさと

 九月二十六日午前、清朝初期の宮廷・瀋陽故宮を参観。
 北京故宮の広大な規模を見たあとでは、やや小さく質素な佇まいに見えてしまうのだが、清朝初代の皇帝ヌルハチの居城はここからはじまった。
 故宮特有の瑠璃がわらの美しさは、華美華麗ではなく、むしろここでは落ち着きのある黒瓦を基調にしていた。

 わたしたちは、五泊六日という短い時間内に多くの旅をした。悠久の歴史と豊な文化との触れ合い、それとともに悲しい戦争の爪跡を凝視せざるをえなかった。
 わたしたちがヒロシマを忘れられないように、中国の人々もかつての日本軍の残虐な行為を忘れ去るわけにいかないのであろう。
 「日本健康麻将協会の訪中旅行は、単なる観光旅行ではありません。日中友好交流があくまでも目的です。その意味では、ときに日中間の歴史を正しく認識し、それが悲しい事実であっても、それに向き合う機会があってしかるべきかと思います」
 田邊会長のコメントを最後に、このレポートを終える。


瀋陽の老辺餃子館で餃子宴会(中央が斉藤副理事長)
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